トップページ アーカイヴス 目次 第5章 近畿圏快走

第5章 近畿圏快走 -- ここは紛れもない大阪だ -- <豊橋→大阪>

(名鉄特急は時速120キロ)

豊橋を目前にしながら、地理不案内と先行き不安、時間切れで無残な敗北?
まさかそんなことにはなるまい、と自らを励ましてみるが、先の予知不能に気が重い。その気分を紛らわすべく、とある枝道に入った。県道を無闇に直進するより、少しでも二川駅に近づくほうが、何となく良いように思えたからである。これが幸いだった。偶然、200米ほど前方を路線バスらしき車が横切るのが見えたのである。
それは豊橋へ向かうJR東海のバスであった。
浜名湖南部の新居町と豊橋駅とを結ぶバスの路線があって、この付近を通過することは知っていた。しかし、その運行本数は日にたったの1本、ということも分かっていて、従って今次計画には利用し難い、と諦めていたのであった。全線を通す便は確かに1本限りであった。が、途中、豊橋の一つ手前、二川駅の東にある大きな工場への通勤者のために区間便が頻繁に運行されていたのであった。私たちが捕らえたのはその区間便バスであった。
私たちは二川駅の2キロほど手前の「東町」というバス停から、安堵をもって豊橋駅前行きのバスに乗った。新所原からの歩行距離は3キロ弱、予想よりかなり短くて済んだのであった。

バスは終着地に着き、私たちは降りた。ここは豊橋である。
豊橋。中京・名古屋の衛星都市。名古屋までは名鉄・名古屋本線がJRの快速と競い合って頻行している。そして名古屋から先は近鉄がある。この名鉄/近鉄の太く、速い流れに身をゆだねれば容易に大阪に達し得ることが自明である。そのルート、手段は確定、既知であって、もはや何等の懸念も不安も存在しない。本プロジェクトの実験的性格はここにて完結、終焉したのである。
そして、残り時間は少ない。予定した3日間に、あと半日を残すのみとなってしまった。それに残念なことに、相棒の紐育君はここで旅を打ち切って引き返えさねばならない。彼は仕事を持つ現役の社会人で、今夜中に東京の自宅へ帰っている要があるのだ。
これらのことから、ここで"豊橋への到達をもって大阪へ着いたも同然と見做し、旅を打ち切って帰っちまう"という考え方が浮上してくる。本計画のモチーフがJRと高速道を忌避し、かつ事前調査も否定して現地の判断のみで大阪へのルートを探る実験であるとすれば、その主旨はここで既に達成されたと考えられる。残された既知の区間に実験は無用であろう。
けれど、それではまるで"画竜に点睛を欠いた"見本のようなものになる。結果が分かっているからといって実行を放棄するのは無責任ではないか。この奇行ともいえる旅は、東京〜大阪のルートを実行・完結させて、はじめてそれなりの意味を持ってくるのだ。最後の詰めで妥協して安きにつくのは阿房旅行の先達、内田百關謳カに対する冒涜である。
帰宅せざるを得ない紐育君には申し訳ないが、私は単独での旅の続行と初志貫徹を決断した。豊橋の駅ビルで簡単な昼食を終えると、彼は去った。だがそのあと、すぐに気になった。この奇態な旅にあえて同行し、協力を惜しまなかった彼に対して、この素っ気ない別れ方はいささか礼を失したようだった、と。帰ったら謝らねばなるまい。

さて、一人旅の私は名鉄に乗る。名鉄とJRは駅がいっしょ、新幹線を擁するJRのほうが規模が大きく、名鉄は間借りしているように見える。駅だけではない。なんと、名鉄は豊橋から北西に約4キロ、駅数で3駅もの間、JR飯田線と同じレールの上を走っている。二つの鉄道事業者が駅ホームを共同利用するのははよくあることだが、線路を、それもこんなに長い距離を共用するのは(国鉄から無理矢理離縁させられた第三セクター鉄道の一部を除けば)非常に珍しい。これは戦時中、名鉄の子会社三河鉄道が国有化されて国鉄飯田線となったことに由来している。JR忌避の旅行者としてはちょっと気がひけるが、運転・営業上はれっきとした『名鉄』なのだから問題はない、としよう。
名鉄の豊橋・名古屋間は特急で約50分、デラックス車両の特急はほぼ15分間隔で運行され、自由席なら特急料は不要である。豊橋発 14:02の特急は左に国道1号、右手には丘陵の崖を配する路盤を時速 120キロで快走し、14:55 名古屋の地下駅に着いた。
つづく


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