トップページ アーカイヴス 目次 吟味と反省

6−1 吟味と反省

まず、旅行行程にて問題となった諸点を挙げ、その後の吟味、調査の過程と結果を述べる。

吟味、その1 −『徒歩』区間の扱いについて−

既述のとおり、本計画は『東海道の東阪間はその全域が一連の帯状の市街地を構成し、したがって地域生活路線としてのバス路線が必ず存在する』という推測を前提としていた。この前提は概論として正しかったが、部分的に例外が存在し、ために不測の徒歩となった箇所が三箇所に及んだ。このことについて検討する。

(1) 由比〜興津間 −薩?峠(第2章、連載6〜7回関連)
顧みるに、この区間での徒歩行は決して"失敗"ではなかったと思う。不測の行為とはいえ、風光絶可、道は快適、距離は適度、ゆっくり歩いて約1時間、どれをとっても軽ハイキングとして卓抜であって、些かも難ずるに当たらない。月並みの幹線交通手段を排する本旅行計画においては、それ以外のあらゆる手段を有効・多彩に行使すべきであって、その意味においても、この徒歩行は積極的に評価に値しよう。

(2) 金谷〜日坂間 (第3章、連載9〜10回関連)
大井川の西での10キロ余の道程は今次道程の中で最悪の区間であったが、実行の当日、おぼろげながら代案が浮かんでいた。 本旅行の帰途、私は掛川で途中下車して該地区のバス事情等を調査、検討し、その日のうちに新ルートを策定することができた。新ルートは、藤枝で東海道と別れ、御前崎〜遠州灘沿岸を経由し、掛川で東海道に復するもので、具体的には後刻、『6−4机上再旅行』の項で詳述する。かくして問題の一つが完全に解消した。

(3) 新所原〜二川東町(豊橋)間 (第4章、連載12回関連)
静岡・愛知の県境でも不安に苛まれながら約3キロの徒歩行を強いられた。 あのとき新所原の駅で思案中の私に、紐育君は「三ヶ日の方へ行けばバスがあるんじゃないの」と言った。過去、そのことは私も知っていた。それに心を残した私は、後日、かなりの日時をこの地域のサーベイに費やした。
しかし、それらのバス路線は、今では殆んど姿を消していた。ムキになった私は、サーベイの範囲を浜名湖の北方、鳳来地区の山地にまで広げ、結果、長篠地区を経由して豊橋へ至るルートの一案を得た。
しかし、このルートは、あまりにも時間がかかり過ぎる。なにしろ当該バス路線(複数)はすべて運行頻度が日に1本。従って、この区間の通過だけでほぼ一日を費やしてしまうのである。マイカー全盛時代、バスの乗客は病院通いの高齢者だけなのであって、『日に1本』が"必要にして充分"なのであろう。
天浜線の終着『新所原』からの道は快適とはいえないけれど、平坦で、とくに障害といえるものはない。あの時は先行き不安による心労で疲れたけれど、行き先もルートも分かっていれば、僅か3キロの徒歩行は受忍の範囲内である。

吟味、その2 −所要日数について− 

次に旅程、旅の時間的側面について考えてみる。
今次の行動において反省すべき点があるとすれば、それは旅程における時間、時刻についての認識が甘く、効率化への配慮を欠いたことである。所要日数は本プロジェクトの主要命題の一つであって、当初の目標は『2日間』であった。結果として3日間を要したことは、事前調査を故意に省いた"実験"としては無理からぬ面もあるが、旅の前半における緊張欠如の影響は否定できない。
ここで、当初設定した目標『2日間』の可能性を検討する。
ローカル路線をいくつも乗り継ぐこの旅においては、乗継ぎの待ち時間が重要なポイントであって、このため路線の運行密度に着目する要がある。上記では地方過疎路線の運行密度の低さに言及したが、今回の旅で実際に行動した地域(採用すべき代替ルートを含む)は、意外といえるほどに高密度運行の路線が多かった。このことは第1章にて言及した『東海道全域が市街地』なる推論の左証である。
しかし、一部には問題の路線も存在した。箱根の西部地区、富士〜由比間等である。私は、これら区間の詳細なバスダイヤを取り寄せ、克明に吟味検討した結果、東京・新宿を早朝5時半に出発し、爾後の乗り継ぎに相応の意を用いれば『2日間』は辛くも可能、との結論を得た。
つづく


前のページに戻る