トップページ アーカイヴス 目次 金谷へ来たのは間違いなのだ

(金谷へ来たのは間違いなのだ)

JR金谷駅。金谷の町の中心部からはかなり外れ、その南西、山襞の中腹に位置するこの駅は、山間の小駅といった感じである。駅前から発着するバスの路線も僅か2〜3を数えるのみ、その中には目指す菊川、掛川方面の路線は見出せなかった。
東海の中堅都市である掛川と、ここ金谷とのほぼ中間に、日坂(にっさか)という、旧東海道の宿場が置かれた地がある。以前、私はその日坂の集落から掛川までバスで移動したことがある。あのとき、バスは日坂始発ではなく、東の方からやって来たように思えた。私はそれを、金谷方面から、と考えた。ならば、どこかこの辺りに『掛川行き』のバス停がある筈だ。金谷の町中へ行ってみよう。不安で重くなった足を引きずって、ここからは1キロも離れている町の中心に向かった。
金谷は大井川の西岸にひっそりと息づく静かな町である。町内を一巡してみた。が、バス停らしきものはどこにも見当たらない。私たちは町の中心部に位置する大井川鉄道の「金谷本町」駅へ足を運んだ。
SLの動態保存で知られる民鉄大井川鉄道はここ金谷が本拠地で、ここと大井川上流のダムサイトとを結んでいる。他の方面へはバスがここから発着しているかもしれない。私は駅で、掛川方面へのバスの有無を尋ねた。
中年おばちゃんの駅員は「そんなバスは知らない、ここにはバスなんてありません」と言った。が、私たちの困ったような顔を見て、暫く考えてから「掛川には、掛川の町営バスがありますね」とつけ加えた。
掛川は最近市制を敷いたので"市営"バスの筈だが、おばちゃんは"町営"といった。掛川という町にはその方がよく似合う。"市営"というと『お役所仕事』を連想するが"町営"という言葉からは生活に根ざした住民サービスの匂いがする。日坂は鄙びた僻村であるが、行政上掛川市に属している。そうか、あのとき私が日坂から乗ったバスは掛川市民のためのサービス機関だったのか、市域の末端を巡ってそこと市中とを結んでいるのだ。当然、金谷とは何の関係もない。
東海道線にはローカルバスが随伴している筈、という私の目算は又も外れた。ここも薩捶峠と同様な東海道五十三次の隘路であって、幹線鉄道が貫通しているが、ローカル路線バスは不要なのである。またも旧東海道を徒歩で行くしかないのだろうか。
今朝の薩捶峠は快適であった。風光絶可、気分爽快、距離も、時間、時刻も、そして天候までも我に与して素晴らしいハイキングであった。だが今度はそうはいかない。まず、距離が長い。金谷〜日阪間は10キロ以上もある。今朝の3倍にも近い。しかも一向に面白味のない田舎道である。江戸時代の石畳を復元した箇所がハイキングコースとなっているが、それはほんの一部に過ぎない。大部分は何の変哲もない地方道である。しかも起伏が多く、その斜度は結構きつい。こんな道を歩くのはうんざりである。時刻も午後を大分回っている。
私たちは、なす術も知らぬまま、再び山の中腹のJR金谷駅に引き返した。
JR東海道線沿線のA市からB市へバスで移動する手段として、第1章にて論じた『鉄道を補完するバス路線』によるというケースを仮に『幹線補完形』と呼ぶとすれば、他に『僻地連絡形』とでも称すべきパターンが考えられる。A、B両市はそれぞれ周辺地域へのローカルバス路線を持つ。いま町村j、k、l、m、nのうち、A市からはj町、k村、l町に、B市からはl町、m村n町に路線バスがあるとすれば、l町を経由してAからBへ移動することができる。
近時の路線バス衰退の現況から、このように"僻地が2つもの路線を持つ"ケースは今では極めて稀であることを、私は経験的に知っている。にもかかわらず、私はそれに期待した。溺れる者は藁をも掴むのである。
金谷駅の数少ないバス停の中から榛原(はいばら)という行き先の地名を認識し、そして地図帳を繙いた。榛原は、金谷の東南13キロ、駿河湾に面する町であった。大阪を目指す我々にとっては逆コースである。これは駄目だ。戻ってしまう。金谷へ来てしまったことは間違いなのだ。
つづく


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