ある日突然、肺がパンクした!

樫村 慶一
  私は2005年2月から今年の2月までの丁度4年間で2回、体に大きな傷跡が残る手術をした。始めは腹部大動脈瘤の除去・人口血管置換手術、そして今年2月の2回目は右肺の気胸手術である。気胸手術は普通は内視鏡で行うが、私の場合は気胸の元になる嚢胞が大きいのと、肺動脈に近かったため安全のため開胸手術になり、脇の下に 10センチほどの切り傷ができた。2回とも前兆がない病気で、ある日突然襲ってくるものだ。しかし、直ぐに病院で適切な手当てを受ければ、それで一件落着になり後を引かない、いわば良質の病気と言うことができる。前兆がないことは誰でも襲われる可能性があるということでもあるので、参考のために経験を披露しようと思う。なお、最初の大動脈瘤の手術についても、以前この欄で紹介したことがあるので覚えている方もいると思う。

  1月29日の夜10時頃、ベッドに腰掛けて側のチェストの引き出しを開けようと体をかがめたところ、急に息が苦しくなった。5秒くらいの間は、”変だな、こりゃなんだ!” と思って深呼吸を数回してみたが、10秒くらい経った後はもう完全に呼吸困難になり口も利けない。痛みは全然なく、ただただ呼吸が苦しいだけで、10 分くらい後には、このまま呼吸が止まるんじゃないかと、本当に死を予感した。それはそれは恐ろしい気分であった。 その苦しさを我慢をしながら 119番にかけた。 自分では原因不明の呼吸困難とは思わず、多分、嚢胞が破れたんじゃないかとは思った。何故ならば、現役時代の1970年代中頃、診療所の勝又先生に ”これが破れると大変だ” と言われていたし、定年後も掛かりつけ医者で健康診断をする度に、定年後に診療所からカルテなどと一緒に返された古いレントゲン写真と比べては、特に大きくはなっていないが、破れると大変だと忠告されていたことを思い出したからだ。ただ、破れた後はどうなるのか、ということが分からないので、不安が最高潮に達したわけである。
  私のマンションから歩いて5分のところに消防署があり救急車は直ぐに来た。とりあえず酸素吸入をした。この時点でも呼吸困難は続いていたが、精神的にはなんとなく安心感が持てるようになっていた。酸素濃度は 77程度(単位不明:健康な人は95〜100)であったが、救急車内でマスクをかけてボンベの酸素量を増やした結果、80くらいまで上がった。80以下が続くと人間は死んでしまうそうである。パタンと死ぬのではなく、脳細胞や各臓器が酸素不足でそれぞれが機能不全になって段々に死んでいくのだそうだ。このままの状態で4年前に手術したと同じ日大板橋病院まで約15分で着いた。 救急救命センターでは、酸素マスクをしながら服をぬがされ、レントゲンをとる、この時点で酸素濃度は88位まで回復してきた。実際に呼吸困難も正常時を10とした場合の8.5程度まで回復してきており、苦しさはかなり楽になっていた。
  レントゲンの結果は直ぐに分かり、センターの担当医師が、”やっぱり肺が破けている” と叫んだ。これで措置方針は確定。直ぐに救急病棟に運ばれ、右脇腹にドレインを挿入する措置が始まった。若い医師で麻酔の打ち方が下手なのか、かなり痛い。終わったのは午前2時を回っていた。ドレインは内径1.5センチくらいのビニールのチューブで、これを通して胸腔に漏れた空気を吸い出し、空気によって押し潰されていた肺房を回復させようとするものである。しかし、この最初のドレインは挿した場所が悪く、十分に空気を吸い出すことができず、翌日2本目を挿入することになった。陰圧を20に設定し、ごぼごぼ空気と水を吸い出す。(肺の中は大気よりも気圧が低いのでドレインを通して外部から吸い出す) この状態で 救急病棟に5泊し、自然に破れた穴が塞がらないかどうか様子をみることになった。ドレイン2本で空気を抜いているにもかかわらず潰れた肺の回復が十分ではない。しかし、呼吸困難は完全に回復し、最早生命の危険は去ったと判断され、救急センターの役目は終わったとして、6日目に呼吸器外科の病棟に移された。
  呼吸器外科の医者は陰圧を50に上げて様子を見、レントゲンで観察したが一定の大きさ以上に肺は回復しない。10日目になり、手術する場合に備え肺内部を綺麗にするため、 3本目の太いドレンが挿入された。ドレインを挿入していても病院内を歩くことはできるが、歩くときは点滴液を吊るすカートにドレイン端末を乗せて手で押しながら歩く。しかし、1台のカートには2個の端末しか乗らないので、3つ目の端末は別のカートに乗せるので、洗面所や公衆電話、レントゲン撮影、CT検査などに行くには2台のカートを両手で押していかなければならない。
  3本のドレインに陰圧をかけていたが結局肺は完全回復はせず、手術が決定的になった。排出される胸水の色から若干細菌感染が見られるとかで抗生物質の点滴が行われた。そして、13日目(手術3日前)には、肺に造影剤を入れてレントゲンの透視を行い、破れた穴の位置を確認することになった。造影剤は1本のドレインを利用して逆に注入する。水飴のように粘こい液体で、上手くいくとこの粘性で穴が塞がることもあるとか、しかし、逆にねばねばしているため手術の際には邪魔になることもあり、やたらには使わない方法のようである。造影剤が肺の中に広がっていく中で、1ヶ所からしゅうしゅうと空気が漏れている様子がはっきり見えた。そして3 日後の2月13日(金)に手術である。緊急入院してから16日目のことだった。
  入院中は煩いくらい体調の測定が行われるが、血圧は110 台〜135位まで、ときたま150なんていうときもあったが、まあまあである。体温は35.3〜36.2度、酸素濃度は95〜98であった。体重は入院前の79.5kgより4kg 減って75kg ちょっと、BMIは常に24を少し越す程度であった。健康なら理想的体形である。 血液検査の結果をプリントしてもらった。通常健康診断で検査する肝臓、腎臓、コレステロール、尿酸、血糖値などの項目が驚くほど改善されているのにびっくりした。カロリーを制限され塩分1日5g以下とか、味を犠牲にしたかなり制限された食事なんだから当然である。ただ、この数値を退院後も維持していくことは、人生の楽しみの一つを放棄することにもなり、考えられないことと諦めた。
  担当医師の説明では、「手術はまず水を注入して破けた穴の位置を確認し、内視鏡で始めるが、私の破れた穴は肺動脈の近くなので、嚢胞を切り取るときに動脈を切ってしまうと、下にある正常な肺房までが死んでしまう恐れがあるため、場合によっては、開胸して慎重に切り取ることになるかもしれない、開胸での生命の危険はないが、後に痛みが続く心配がある」、と言った。 手術は正味3時間で4年前の大動脈瘤の6時間半と比べると半分の時間なので、妻や娘もホットした。結局、内視鏡だけでは出来ず開胸した。嚢胞は切り取らず、押しつぶしてパッチを貼り付けたと言っていた。再発率は略ゼロとか。 一晩Hight Care室に入り翌朝はもう歩いて病室へ帰った。これで一件落着で、後は痛みの我慢だけである。医師が説明の際、「開胸で肩甲骨の下を切るとどうしても肋間神経を切らなくてはならないので痛みが暫く続く」 と言っていたのを、すっかり忘れていた。帰宅して1週間経っても一向に痛みが和らぐ様子がないので、電話で聞いたら、”春まで我慢して下さい”と、いとも簡単に言われた。説明を受けた時、まさか開胸はしないだろうと思って、しっかり聞いてなかったので忘れていたのである。
  手術から3週間も経過すると傷跡は触っても痛みを感じない。しかし、じっとしていても時々脇の下から腹部、背中にかけて皮膚の内側が切り傷のような鋭い痛みを感じる。ところが、その部分を上から押しても特定の部位が分からない、それなのに皮膚の上をさすると、ぴりぴりと痛みが広がる。まことに不思議な幽霊のような痛みである。皮膚表面が摺れると余計痛みを感じるので、シャツやパジャマが直接当たらないように腹の手術の時の腹巻を巻いている。家庭の医学やインターネットで気胸の資料を色々読んだ。どの資料にも手術そのものは簡単で、心配のないもののように書かれている。しかし、私が実際に経験して思うのは、開胸手術した場合の、肋間神経を切断することによる痛みが長期間残ることが大きな問題だと思う。神経を切断したら痛みは感じないと素人は思うけど、脳細胞が神経が切断されたことを認識せず勝手に痛みの信号を出すからだと医者に言われた。痛みの残ることは本には書いてない。しかしこれは重大ことだと思う。内視鏡手術と開胸手術の決定的な違いだからである。 痛みのもう一つの原因は皮下気腫の発生である。漏れた空気がドレインで排出されないで、皮膚の下にたまってしまう現象である。皮下気腫が出現している部分は痛痒く、さわると、ずぶずぶと海辺の砂浜を歩いているような感じがする。私の皮下気腫は首の手前まできたが、手術後はすっかり消滅した。
  私は4年前の大動脈瘤は手術の5年位前からエコー検査で観察していた。また今度の気胸も30年以上も前から意識し、定年後もレントゲン写真を監視していた。でもまさか今破れるとは思ってもいなかったが、これで、私の体の2大欠陥が解消したわけで、やれやれと思っている。しかも、いずれも悪性の病気ではないので安心もしている。
  5年前に、友人を訪ねて愛知県の知多半島に行った。そこに“野間の大坊”(正式名称は不明)という有名なお寺がる。源頼朝の父親の義朝の墓がある。友人はこのお寺の住職と懇意で、偶然に庭で会った時、私の顔をじっと見ただけで、ただ一言 “あなたはxxx歳まで生きる” と告げられた。この住職はこういった予言や託宣で有名な人で、全国から訪れる人が多いと言う。それ以来この言葉が私の中にずっと根付いていて、自分はまだまだ長生きできるんだと自己暗示をかけてきていたが、ここ4年で立て続けに大手術を受ける羽目になり、この予言に不安を感じるようになってきた。
  しかし、いずれも悪性の病気ではないし、食欲はあり、夜は熟睡し、快便快通なので、なにも悲観することはないと自分に言い聞かせてもいる。
  私の経験話しが、読んだ方にとって少しでも参考になり、「気胸は怖いけど決して恐れることはない」 と認識されれば私の無上の喜びである。
終わり
(2009. 3. 8記)