四 季 雑 感
 (12)                 樫村 慶一
   チリの鉱山崩落事故にまつわる裏話し (その2)

+++さて本題の太平洋戦争とは+++
  1860年代にスエーデン人のノーベルがダイナマイトを発明し世界的に硝石の需要が高まった。当時、ボリビアとペルーの領土だった南米の太平洋岸地域一帯からは大量の硝石が産出されており、ボリビア経済の根幹を支える貴重な資源になっていた。チリ人が英国と共謀してこの利益に目をつけたのである。すでに1870年代の終わり頃には、この地方には鉱物資源の採掘権をボリビア政府から譲渡されたチリ人や英国人が多数進出していた。ボリビアの太平洋岸と本国の中枢とは、真ん中に6000米を越えるアンデス山脈が聳えていて十分な行き来ができず、通信手段も人馬が頼りであったため、首都ラ・パスと海岸地方の間の情報伝達はきわめて不自由であった。そのため政府の監督の目が十分に届かなかった。採掘権だけでは飽き足りぬチリはこれにつけこみ、英国と組んでこの地方を武力によって自国領土にしようとの野望を抱いた。その手段として、ボリビア政府と協定した税金を意図的に滞納したりして、ボリビア政府を挑発したのである。不安を感じたボリビアとペルー両国は、チリに対抗する同盟条約を結んだ。
  1879年の初めに、ラ・パスから海岸地方の地質調査に来た鉱山技術者が、チリ人の横暴な進出を見て大統領に報告、政府は初めて事態の緊迫に驚いた。鉱山技師からの報告書が届けられた時、大統領官邸ではパーティーが行なわれており、緊急報告書は翌日まで開かれないままになっていた。それほど、政府は海岸地方の状況に緊張感がなかったのである。しかし、ここから事態は一挙に戦争へと転がり落ちる。
  1879年2月、チリがアントファガスタを占領する。挑発に耐え切れなくなったペルーがまづ宣戦を布告し、ここに太平洋戦争が勃発した。十分に準備をしていたチリ軍は、ペルー、ボリビア連合軍を緒戦で簡単に撃破した。しかし、連合軍側も反撃し戦況は一進一退のまま推移した。 
  一方、チリの有力な政商達は、言葉巧みに、ボリビア政財界や軍隊上層部などに食い入り、ボリビア政府の政策などの秘密情報を入手し、逐一チリ政府に通報するなどのスパイ行為を働いていた。こうして政商達から絶えず最新情報を得て、常に軍備を整えていたチリ軍は、海岸地方の都市を次々に占領していった。そして、援軍として遥々とアンデスを越えてきたボリビア軍と大規模な会戦を行った。ボリビア軍とペルー軍は緊密に連携して戦ったが、1880年5月の戦いで遂に連合軍は大敗を喫してしまった。
  勢いに乗るチリ軍は1881年1月、ペルー中央部まで進出し首都リマを占領した。このとき、インカ帝国が支配していたペルーを侵略したスペイン人ピサロのミイラが安置されている大聖堂もチリ軍に蹂躙された。惨敗を喫した両国は、まず1883年にペルーが降伏し、1884年にはボリビアがアルゼンチンに仲裁を頼み、休戦協定を結んだ。こうして戦いは漸く終わった。
(上の写真は、ボリビア兵(左の赤服)がチリ兵をやつけている場面、下の写真を拡大したもの))
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  これがのちにボリビアを”南米で最貧国”と言わしめるもとになった、海への出口を失う原因となった太平洋戦争の概略である。天然資源と貿易港という国を支える2本柱を失ったボリビアは今もって、「黄金の椅子に眠る乞食」 と皮肉られ南米の最貧国に甘んじている所以でもある。ボリビアやパラグアイの貧困な経済のため南米大陸を一つの域内とする関税自由化交渉がまとまらず、ボリビアは現在でも他の国の発展の足を引っ張っている。これだけ見ても、当時の政府の不手際が如何に大きな失政だったかが分かるというものである。
  チリとボリビアはその後何回か国交断絶と再開が繰り返されてきたが、いずれも根本的な解決を見出せずにきている。1987年4月にはウルグアイのモンテビデオで、海への出口の返還交渉が行われたが、当時のチリのピノチェット大統領は、一片の土地も譲らないと強行姿勢を示した。これに対してボリビア外相が、卑怯者とののしったり、チリ製品のボイコットを決めるなど、両国関係は一触即発の危機状態に陥ったこともあり、今もって不仲は解消されていない。今回の落盤事故のような場合を利用してでも、なんとか交渉の糸口が欲しいボリビアは気の毒と言うほかない。
  ボリビアの太平洋への出口への欲求は、日本の北方領土返還の悲願と同じようなものであるが、こちらの方は、国の繁栄が止まって以来、すでに120年以上も訴えつづけているのだ。チリが返還に応じる可能性は殆ど無いだろうから、ボリビアにとっては未来永劫に背負わなければならない宿命であると言える
  その1で述べた兎の形をしたチチカカ湖(小チチカカと言われる)から、本来のチチカカ湖に渡る渡し舟の桟橋の横に、コンクリートでできた記念碑が建っている。ボリビアにとって、悔やんでも悔やみきれない、太平洋戦争のモニュメントである。台座の上には、1879年3月28日の戦いで死んだ英雄エドアルド・アバロア将軍が、右腕を西 (太平洋方向) に向けて伸ばした銅像が乗っている。台座の一方の面には、軍人や原住民が遥かな海を望んでいる姿の画があり、「ボリビアは海への出口を要求する」 と書かれている(上の写真)。 反対側の面 (右の写真)には、ボリビア軍が銃剣でチリ兵をやっつけている絵が画いてある。 かっては鋼鉄製の戦艦も保有していたボリビア海軍は、今でもその名前だけは残し、チチカカ湖の警備に僅かに海軍の痕跡を残している。 おわり   
                (2010.10.21記) 
【写真:樫村慶一、無断転用不可】
 
(注)この話は、1983年8月に製作されたボリビア映画のオリジナル・シナリオ(スペイン語版)を読んで纏めたものであり、地図は1982年2月発行の「朝日旅の百科」海外編20号にでていた地図に色付けしたものです。