地震の巣、ペルー太平洋岸を行く
銀乃 川太郎
3.<恐怖の地震地帯> 
 
 日本は地震国だと言われているが、南米中米の太平洋岸の発生頻度とくらべたら、特に多いとは言えない。もっとも狭い日本の範囲と南北で1万キロ以上にもなる中南米太平洋岸とでは、密度では日本の方が多いかもしれない。 私の集めている資料によれば、1960年5月22日にチリの南部、チロエ島付近で起きたチリ大地震以来、冒頭の地震(1.に述べた2007年8月15日の地震)までの47年間で中南米に起きたM6以上の大きな地震は20回以上にもなり、そのうち一番多いのがペルーである。規模の点ではチリ大地震のM9.5の地震が史上最大と言われており、津波が太平洋を完全に横断して三陸地方にまで押し寄せた。
  数多いペルー地震の中で特筆すべき地震は、1970年5月の有名なアンカシ地震(後述)の丁度30年前の、1940年(昭和15年)5月24日にリマ近郊を震源地とした大きな地震のことである。時代は太平洋戦争の前年でペルーとは複雑な国交関係にあった。たまたま地震の10日ほど前の5月13日、リマ市で大規模な排日暴動が起きた。原因は日本人理髪業組合の内部抗争が元であったが、現地人がこれに乗じて排日行動を起こし、日系人社会に多数の被害がでた。日本への帰国を余儀なくされた日本人移民もいた。その10日後に起きた地震は、”罪のない日系人を虐めた天罰だ”という噂が流れた。科学的知識に乏しい妄信的カトリック信者の大衆は、余震の度に戸外へ飛び出し地面に膝まずいて手を合わせ改悛の情を表した。これにより暴動は収まったという歴史がある。怖いはずの地震が日本人に幸いした”神風”になった、という日本人ペルー移民史の一こまである。(排日機運はその後も太平洋戦争への突入により一層激しくなった)。
  ペルーでは1970年のアンカシ地震以来2007年8月15日の地震までで、M6以上の地震は10回を数える。アンカシ地震はペルーの地震の記録のなかでも特筆される地震であった。 1970年5月31日、リマから北へ450キロに位置するアンカシ県で起きた地震は、マグニチュード7以上と言う大きなものであった。州都のウアラス市では45秒間も震動が続き、ウアラスから約50キロ離れたユンガイの町は、両側に連なるアンデスの山々が崩れ、低地にあったこの町は完全に埋没した。周辺のカラス、マンコス、カルウアスなどの町村も大被害を受けた。この地震による死者は5万人以上と言われており、復旧のため国連の呼びかけに応じた世界各国が救援活動を行い、埋まった町の上に新たに道をつけたりする作業が5年間も続けられた。 ♂  → アンカシ地震の後で、ペルーで起きた地震だけを取り上げて見ると、 1974年10月3日の中部地震、1979年2月の同じく中部地震、1981年4月の東部地震、同じく1981年6月の中部地震、1990年5月29日の北東部地震、1996年10月12日のリマ南東部地震とマグニチュード7以上の地震が頻発している。 この中でも、1974年10月3日の地震は、2.で述べた最初の日本人移民の上陸場所サン・ビセンテ・デ・カニェテの沖合い、深さ50キロの海底で発生したマグニチュード7.8と言う関東大震災並の物凄いものだった。カニェテの海岸では海水が200メートルも沖合いに引いたということである。 この日はたまたま、1968年の軍事革命の6周年記念日だったが、この地震のため式典は中止された。 リマ市の古い住宅はアドベ造りが多く、倒壊家屋がたくさんでた。また、パチャカマック遺跡も大きな被害を受けている。
  1981年には東部と中部で2回も地震が起きた。実は、この前年に米国の地震専門学者が「1981年の8月頃、ペルー沖でマグニチュード9.9の大地震が発生する」 との予知を発表したため、ペルー海岸地方やチリなどでは一種のパニック状態となり、ペルー政府も米国に確認を求めた。その結果、それほど正確に予知できるものではないとの結論になったが、この年はペルーで2回、チリで1回、どちらも中規模の地震が起きたことを考えれば、米国の予知は半分当たったようなものだと言うことになり、この年は年末まで両国はかなり不安な日々を送ったということである。
  21世紀に入ってからも 2001年1月と2月にもエル・サルバドルで大きな地震が起きたし、2003年1月にはメキシコの太平洋岸でM7.8の大地震が起きている。全く微動だにしない大西洋岸の地域と 2〜3年に1回は大きな地震に襲われる太平洋岸地帯とは、ライフラインや建造物などの建設費用を始め、社会的インフラなどのコストが物凄く違うだろうと思う。パンアメリカン・ハイウエーが経済力が弱い国が並ぶ太平洋側にあったのが不運で、大西洋側に作られていればもっともっと立派な道だったかも知れない。私はかって、この道をチリのプエルト・モンからコロンビアのカルタヘーナまで走るのが夢であったが、もはやその夢はパチャカマックの砂のように消えてしまった。
    完
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