Sugar & Salt Corner
No.26   2005年12月13日
佐藤 敏雄 

AT&Tの終焉

(Ma Bell は消えても、その発明の成果はそこにもここにも)
IEEE Spectrum 2005 年7 月号より   筆者:Michael Riordan (注1)
Ma Bell が消える
それは1974年、アメリカではウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任して政界が大混乱。わが国では田中首相が 退陣し三木内閣が発足した。三菱重工ビルが爆破された年でもあり、葉書は10円、掛けそば150 円の時代であった。

当時、AT&Tは総所得260億ドル (現在価値820億ドル) でGDPの1.4% を占め、加入者1億人、従業員100万人を誇る 一大企業であった。大きなベルのマークがAT&Tベルシステムのシンボルとして使われ、Ma Bell (母さんベル) と呼ばれて長年親しまれてきたが、僅か 30年後の今日その巨象は面影も無い。

テルスター衛星
テルスター衛星
その衰退の要因は数多あるが、最大の打撃はその年 11月に出された司法省の独占禁止法による提訴であり、やがて 10年後、AT&Tは分割されることとなった。そのネットワークであるベル・システムは7つの地域ベル会社 (Baby Bell) に分割された。AT&Tは長距離電話サービスと、伝説的な名声を持つBell電話研究所 (以下、ベル研) 並びにその製造部門 Western Electric (以下、ウェスタン) を保有していた。

その後AT&Tは、多くの新規ビジネスを手がけたり、分社、合併、売却などを試みたたが、終に姿を消すこととなった。 今AT&Tは専ら企業通信に力点を置き、未だに通信業界の雄であるが、Baby BellのSBC Communications に160億ドルで 買収されることとなった。間もなくニューヨーク株式市場からそのシンボルTも消え、アレキサンダー・グラハム・ベル の電話の発明から始まった会社は、公に姿を消そうとしている。

我々はこれを悲しむべきであろうか。今や電話会社はごまんとあり、いくらでもAT&Tと同様なサービスは手に入れる ことができるから、単純な答えはノーかもしれない。しかしそれは比類なきその研究開発の歴史を無視するものである。
1925年から1980年央までの最盛期にベル研が成した発明と発見は、我々の住む世界を一新すると共に宇宙への理解を 深めたのであった。その発明成果であるトランジスター、レーザー、太陽電池、光ファイバー、衛星通信など、 いずれも20世紀の記念碑と言うべきものである。AT&Tの優れた研究開発マシンが他に比すべきものも無いことを 疑う者はいまい。しかしそれが皮肉にもAT&Tの消滅に寄与したと考える者は少ないだろう。そして今、過去30年間 走り続けたこのタフな研究開発エンジンは遂にスチームを使い果たしてしまったのである。

AT&Tの独占が揺らぐとき AT&Tが米国の電気通信界を支配している間、ベル研とウェスタンの科学者達には、10年、20年先を見据えた研究が 可能となるよう、継続的な研究費の配分が行われていた。このような安定的資金の供給と先見的考え方が相俟ってこそ、 無線・光通信、情報・制御理論、マイクロエレクトロニクス、コンピューターソフトウエア、システムエンジニアリング 、オーディオ録音、デジタル映像技術など、極めて幅の広い分野での寄与が可能だったのである。ベル研は3万件 以上の特許をもち、6人のノーベル物理学賞受賞者をはじめ、その他多くの賞の受賞者を輩出している。

このような資金の大半は、電話料金の中に埋めこまれた研究開発税とでも言うべきものから来ていた。例えば1974年には、 ベル研はAT&T総収入の2% に当たる5億ドルを非軍事的な研究に費やし、ウェスタンはそれを上回る額を部内の技術 、生産改善のために用い、結果として1ドルの電話料金の内、4セントが両機関の研究開発に当てられていた。

Thomson and Jewett
大電力真空管を持つ電子の発見者
J J Thomsonとベル研初代所長F B Jewett

AT&Tの研究開発は、主として、第一次大戦前の大陸横断電話サービスの増幅器に必要な、大電力増幅用真空管の開発の 経験に根ざしたものである。 AT&Tは電話市場の50%以上を確保してはいたが、所有する特許が期限切れを迎え、 地域電話会社からのめちゃめちゃな競争に晒されると、主導権が脅威に晒されていると感じ始めた。これを脱却するため、 AT&Tは、すべての家庭に電話をつけ、全米に亘ってこれを接続するという、他社では真似のできないユニバーサル・サービス を行うことを目論んだが、そのためには中継器に使う、極めて歪の少ない増幅器が必要とされていた。

ここに登場したのが若き技術者H. D. Arnoldであった。1912年、彼の作ったタングステン陰極を酸化皮膜で覆うという 技術により低歪の大電力増幅管が完成し、大陸間電話サービスが可能となった。やがて中小電話会社をベル・システム 傘下に収め、再度電話市場の独占を達成したのである。

1915年、サンフランシスコにおける 国際博覧会でAT&Tは大陸横断電話のデモを行ったが、ニューヨーク本社にいる アレキサンダー・グラハム・ベルは、最初の無線電話実験のときと同じ、かの有名な呼びかけを行った。 「ワトソン君、用がある。チョッと来てくれ給え」と。 かの実験の時にはすぐ傍にいた忠実なる アシスタントのワトソンは、「ここからニューヨークへ行くには5日もかかるんですよ」と答えたと言う。

産業研究所として 1925年には研究機関を統合してベル電話研究所が発足した。ベル研は当初AT&Tの電話運用業務の改善に取り組んだが、 やがてもっと先を見据えた基礎研究に力を注ぐようになり、劇的なブレークスルーを達成することとなる。1937年には C. J. Davissonが電子の波動的振る舞いに関するドブロイの理論を実証し、ベル研では初のノーベル賞を受けることとなる。 このような量子力学的解釈は半導体の研究には欠くことのできないものであり、第二次大戦のレーダー技術への応用の 道が開け、ベル研とウェスタンは大きな貢献をした。

無響室
無響室での音響実験

この固体量子物理学の研究が戦後のShockley等によるトランジスターの発明につながるのであるが、トランジスターが 工業上の大発展を遂げるには、シリコンの高純度化、結晶成長、半導体上へのドーパントの拡散技術の開発など、 更に10年以上の年月を待たねばならなかった。ベル研の科学者達はノーベル賞を貰う者もあり、新聞でももてはやされたが、 ウェスタンで完成された精密加工技術や無塵室の開発などに見られるように、工場や治具メーカー、生産技術者、 ラインの工員などが、賞を獲得した科学者の理論を、実用的で信頼性が高く安価な製品に仕上げて行ったのである。

トランジスターの発明に対し1956年にはShockleyらがノーベル賞を獲得したが、ベル研からはその後も引き続き 新技術の開発が続く。シリコン技術はやがてICの開発につながり、人工衛星の安定で信頼性の高い電源として欠くことの できない太陽電池の開発を見た。

J. R. Pierceは戦時中のレーダー用進行波管の研究を進めて、永年の夢であった衛星搭載用マイクロ波増幅器を完成し、 AT&Tのテルスター衛星の開発に主要な役割を果たした。1964年には A. A. PenziasとR. W. Wilsonが、テルスター通信用 だった小型のホーンリフレクター・アンテナを活用して宇宙からビッグバンの残骸であるマイクロ波を受信し、宇宙の起源 の研究に画期的な役割を果たし、1978年のノーベル賞を獲得している。

アンテナ
ビッグバンの残骸のマイクロ波を受信した
ホーン・リフレクターアンテナ

優れた研究開発計画と技術保守主義
ベル研とウェスタンはトランジスター技術をAT&Tのみで保有しているのは勿体無いとこれを公開し、何回もその 普及のための セミナーを開いた。これには工業界から多くの大企業が参加したが、その中には、後にソニー となる東京通信工業の姿もあった。トランジスターが今日の情報時代を築いたと言えるなら、このセミナーが その火を煽ったと言う事ができよう。当時 AT&Tは国の科学と技術を豊かにすることにより、公共の福祉に寄与する と考えており、それが自らの首を絞める結果になるとは思いも及ばなかった。

彼等の気風は技術を正しく普及させる事であり、信頼性とネットワークの耐性に力を入れる余りその動きは遅かった。 長距離自動ダイアルやタッチトーン (ピポパ) などの新技術の導入には、10年もの年月を要した。事実、携帯電話 などは戦後すぐの1947年にはベル研で詳細な記述が成されていたのである。
技術的保守主義が典型的に表れたのは、1930年代すでに発想があった電子交換であろう。可動部分が無く騒音の無い 電子スイッチは1959年には開発されていたが、ベルシステムで取り上げたのは 1976年であり、本格的に導入 され始めたのは、独占体制が消滅した1980年代になってからであった。この間、競合相手であるMCIやスプリントは 急速に電子交換を導入し、AT&Tの停滞が促進された。

ICに必要な基本技術もまたAT&Tにより発明されたのであるが、 ICそのものの開発は行われなかった。Fairchild やTexas Instrumentは、軍や航空機産業用部品の小型化の過程で この分野をリードして行った。AT&T技術者達は多分、寿命数十年の高信頼性部品の製造を考えていたものであろう。

長期的視野に立った研究
技術的な動きの遅さは、一つには過去の技術の蓄積が寄与している。巨大な投資に対する償却には誰もが二の足を 踏むものである。特に厳しい競争が存在しないときには。ベルの経営者は余りにも長期的な視野を持ち過ぎていた のかも知れない。ベル研の研究者にとっては先を見通すことが大切であり、近い将来の研究所の目標よりは、自分の 本能が指し示すもの、特に自分が興味を引かれるものを探求することができた。
He-Ne Laser
ヘリウム・ネオン・ガスレーザーの実験

彼らにおける唯一の圧力は、いい論文が書けるか特許が取れるかということであった。Murray Hill研究所の広い オフィス、測定器が揃った研究室、いい環境とカフェテリア、完備された図書館。これが世界中の研究者の憧れの的 であった。幅広い研究の自由を与えられ、長期的ビジョンを持った上司に恵まれ、多数の「世界に先駆けた」研究を できた彼等は幸せであった。
例を挙げてみよう。例えば、林 厳雄 (注2) とM. Panishは、初めて室温で動作する半導体レーザーを作ったが、 これはDVDや CD、プリンター、スキャナー、バーコード読み取り、光通信などで不可欠のものとなっている。 同じ頃W. BoyleとG. Smithは、デジタル画像処理に不可欠であり今や何億台も普及しているデジタルカメラの 心臓部となっているCCD 装置を発明した。

一方、ソフトウエアの方でもベル研の科学者達は、コンピューター技術の鍵とも言えるユニックスやC言語並びに関連製品を 開発し、他の会社、例えばサンマイクロなどの成長に寄与している。

競争と公共性
しかし1984年の分割以降、基礎研究は次第にやりにくくなり、多くの優秀な科学者が辞めていった。そして1996年には、 ベル研の多くを受け継いでLucent Technologiesが分社された。しかし優秀なタレントの流出は止まず、データの捏造事件 や株価下落と共にこれが一層加速された。2002年には23.1億ドルだったLucentの研究開発予算は2003年には14.9億ドル に急落した。最近ようやく黒字になり、幸いにもトップ 100社に留まっている。
振り返ってみるに、公共的企業が厳しい市場競争の中で、長期的視野にたった研究に多額の資金を使うということは 不可能なことであろう。AT&Tは規制された独占体制の中で社会に対し莫大な価値をもたらしたが、電話に関係の無い 新技術を商業化することは許されていなかった。同社は電話料金を通してしか新技術に要する経費を捻出することが できなかった。戦後の規制された独占体制の中では、固体物理部門を新設するなどリスクの多い研究に対する経費を 電話料金の中に組み込むことができていた。しかし厳しい競争が始まり、分割された後の普通の会社としてはその ような贅沢は許されるべくも無かった。

結局、我々消費者が究極の敗者である。活気のある前向きの社会では、長期的な技術の将来のために必要な資金を保有 しておく必要がある。政府にこれを任せれば公的な資金を価値ある研究に振り向けることはできるだろうが、これは著名な 科学者に有利に働き、斬新ではあるがリスクを伴うアイデアをもつ若くて聡明な研究者を見落としがちである。
AT&T、ベル電話研究所、ウェスタン・エレクトリックは、一般加入者からの少額な資金を工業的システムにおける 長期的研究開発プロジェクトに有効につぎ込み、それが多くの場合、我々の生活の大きな改善をもたらしたのである。 今日、我々はあの素晴らしい 生産的な時期に彼らが築き上げた技術資産を食い潰しているのである。今、 我々は果たしてこれに代わるような何かを行っているであろうか。

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(注1) 筆者 Michael Riordan: カリフォルニア大学、スタンフォード大学で物理学と技術史を教えている。
(注2) 林 厳雄 (はやし・いづお) さん
1922年東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒。 同大原子核研究所助教授を経て渡米。ベル研の研究員だった1970年、 同僚の化学者とともに、それまで零下数十度に冷やさないと使えなかった半導体レーザーを常温で連続発光させること に成功した。帰国後、日本電気中央研究所フェローとして 半導体レーザーの劣化問題に取り組み、長寿命化を達成。 1986 年に朝日賞、2001年に京都賞を受けた。本年9月26日、急性肺炎のため横浜市内の病院で死去した。 83歳だった。       (本稿執筆中に新聞で訃報を知った。何かの因縁かと感慨深い。ご冥福を祈ります)
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