福島だからこそ旅に出た

伊原 昭男

 

セブ島の『僕の村』に行く前に、家内と車で福島県を旅して参りました。

猪苗代から始めて、裏磐梯、白布峠を越えて米沢(山形県)、小野川温泉、会津若松を廻って3泊4日。宿の「予約なし」で、気に入ったところで宿を取り、「次はどこに行こうか」と情報を集めながら、気ままな旅を楽しんだ。結婚間もなく、二人で21日間、アメリカを気ままに横断した(8,800km)ことがあったが、その時以来の旅スタイルだ。

風評被害の福島県は、どこに行っても、係員が暇にしているので、気軽に、かつ、とても丁寧に対応してくれた。 特に、「会津若松」は、通常、この時期、修学旅行の大型バスでごった返す大駐車場も、乗用車がポツポツだった。会津は初めてだが、奥が深いことが解り、とても気に入ったので、4日間の行動日のほぼ2日間をこの城下町で過ごした。

東北の小京都というと秋田の「角館」が有名だ。 確かに、角館の家並みは「視覚的に」小京都だが、・・・会津の城下町は、歴史的に、文化的に、精神的に、はるかに重みがあり、ずっと京都に近いと実感した。

松平家の庭園「御薬園」
松平家の庭園 「御薬園」: 家系図がある「重陽閣」はこの中にある
 

特に、私の場合、「会津」と言うと先ず「松平」さんを思い浮かべてしまい、どうしても興味が「松平家」に関するものに向いてしまう「せい」かも知れない。そんな中、松平家の庭園、「御薬園」を見学していた時だった。家内(薬剤師)が薬草に詳しいので、いろいろ珍しい薬草(例えば猛毒のジキタリスやハシノドコロなど)を教えてもらいながら、
「いくらなんでも、松平さんが小さい頃にこの庭園で遊んでいた、なんてことはないだろうなあ」と思っていた。

ところがどっこい、この庭園の中にある「重陽閣」(ちょうようかく)を見学していると、徳川家光の弟「保科正之」から始まる松平家の家系図を見つけた。そこに、「恒和」の文字を見たときには、飛び上がるほどビックリ、というより、飛び上がるほど「大喜び」し、家内を呼んだ。よく見ると、(話には聞いていたが)、あの「松平容保」(かたもり)が、本当に恒和さんの「ひいおじいさん」に当っている。今度は私の方が家内に、松平容保は新撰組を組織した人であることを説明した。「保科正之」−−−−「容保」−「恒雄」−「一郎」−「恒忠・恒孝・恒和の3兄弟」 までが 記載されていた。

松平家の家系図
松平家の家系図: 徳川家光の弟
「保科正之」から始まり「松平恒和」さん
まで
 

さらに、昭和天皇の弟、秩父宮の妃・「勢津子」(旧・節子)さんが「おばさん」に当ることも知った。 勢津子さんについては、秩父宮さまに嫁がれた時、会津の人々が、「40年ぶりに(賊軍の)汚名返上が叶った」と、喜びに沸いたことも知った。 その理由もよくわかる。

そもそも、孝明天皇に信望厚い「松平容保」は、京都を守るために京都守護職として迎えられ上京したのに、最後には賊軍の代表格のように扱われてしまい、松平家および会津の人々の無念さは計り知れなかったことだろう。 白虎隊は有名だが、武家屋敷に復元された家老「西郷頼母」(たのも)家の屋敷では、戊辰の乱での悲劇、「女性・子供達一門の自刃」という悲劇、の解説もあった。 そんな犠牲を払った会津の人々の悔しさは計り知れなかったことだろう。その会津の人々に「光」を差したのがこの「おばさん」だったのだ。白洲二郎とその夫人、麻生太郎ちゃんのお母さんたちとの写真も多く展示されていた。

また、「鶴ヶ城」も非常に興味深かった。不勉強の私は、「伊達政宗」と言えば仙台と思い込んでいたが、米沢城に生まれた政宗は一時鶴ヶ城の城主でもあったそうな。

鶴ヶ城の歴代城主の家紋
鶴ヶ城の歴代城主の家紋: 1643年以降は保科家、そして改姓して「松平家」となる
 

しかし、これも「小田原攻め」に遅参したため、秀吉の処分を食らって仙台に追いやられたのが、真相のようだ。そのあとの城主が「蒲生氏郷」(うじさと)だ。 この氏郷はまた「お茶」の世界になくてはならない人物だ。

今度も、お茶を学ぶ家内から、茶における蒲生氏郷の話を「初めて」真剣に聞いた。
「利休七哲」の一人であるばかりでなく、秀吉の逆鱗に触れ自刃させられた千利休(宗易)、その2代目「少庵」(第2婦人の連れ子)を秀吉から匿った武将だ。城内に移設された「麟閣」(りんかく)を見学した時には、家内からさらに詳しい歴史−[ 宗易(利休)に始まり、少庵、元伯宗旦、3流派(表・裏・武者小路)、そして現在の裏千家家元、宗室までの話 ]−を聞き、これも改めて真剣に記録した。家内は、長年、お茶をやっているが、「伊達」にやっていた訳ではないことがよくわかった。
千家の歴代家元
千家の歴代家元:  「宗易(利休)」に
始まり4代目以降は3流派に分かれる
(上から武者小路千家、表千家、裏千家)
 


さて、鶴ヶ城城主は、蒲生氏郷のあと、あの大河ドラマの上杉景勝(直江兼続と)に移り、また蒲生家に戻り、保科家、そして保科2代目の後は「松平家」に改姓され、今の恒和さんに繋がっている。 これはこれはおもしろい。もっとも、松平・本家は、恒和さんの「おじいさん」恒雄さんの代で、弟(恒和さんの大叔父さん)の保男(もりお)さんの系統に移ったようだ。現在の本家は、恒和さんとは「はとこ」の保久(もりひさ)さん(NHKディレクター。キャスターの方ではない。)だそうだ。これらは、「重陽閣」の説明係員を、家内と1時間も独占して聞き出した話だ。

鶴ヶ城にまつわる歴史的な話は面白いが、建築物としては、私個人的には、城内の茶室「麟閣」の方が興味が深い。 千家2代目「少庵」が、自分を匿ってくれた蒲生氏郷に感謝を込めて造った茶室が「麟閣」だ。 質素を旨とする茶の精神が滲みこんだ素晴らしい「茶室」だ。秀吉の、成金趣味の、俗っぽい、「金の茶室」など想像するだけで汚らわしい。

今の福島は本当に穴場だ。「空いているだろう」と敢えて選んだ常磐高速は、若干遠回りになるが、やっぱり空いていた。 会津若松の無料駐車場はどこも広くてガラガラで、有料駐車場の方には車がない。 どこに行ってもサービス満点で、係員やインフォメーションはいつでも親切に対応してくれる。 時にはこちらが話を切り上げたいくらいだ。 ホテルでお会いした原発被災者家族は、「もう、半年もここに住んでいるんですよ。 これから仮設です、どうなるのかなあ。」と疲れ切っていた。 
鶴ヶ城
鶴ヶ城:   2代目「少庵」が
「蒲生氏郷」のために造った
茶室「麟閣」はこの城内にある
 

会津の城下町は知的満足感を刺激してくれる建造物や歴史の秘話がいっぱいだ。 
山間の小さな小野川温泉の女将さんは客が少ないので話が止まらない。 「もう、ご飯を食べさせてよー。」道路脇の果物屋さんから、可愛そうなほど安くなった、(県知事お墨付きの)桃やりんごを買い、峠超えのビュー・ポイントで ほおばった。 五色沼の毘沙門沼に貸しボートを浮かべたのは、我々の1艘だけで、大きな錦鯉が人懐かしそうに寄ってくる。他にもいくつもいくつも話はあるが、・・・切りがない。

福島の皆さん、頑張ってください。

そもそも、人間が制御できないようなものを造ってはいけない。世界中で動いている原発の使用後核廃棄物の処理方法がまだ見つかっていないのに、今日も核廃棄物を生み出している。核廃棄物が無害化するのに「10万年」と言われている。  さても10万年前の人間と言えば、人間(ホモサピエンス)の前のネアンデルタール人にまで遡ってしまう。ということは、今の核廃棄物が無害化するころは、人間は今の人間でないかも知れない。「つけ」を子や孫に廻す、 なんてどころの話じゃあーない。

原発を責めるだけでなく、我々自身も電気を使わないようにする努力が必要だ。
マンションによっては、「ガス」がなく「オール電化」しかないものがあるそうだ。 ふざけた話だ。 そもそも台所で「熱」を出すのに、なぜ途中で、「電気」に変換するのか。
化石燃料を電気に変換するのに、30%程度しか変換されず、残りの70%ものエネルギーは無駄に捨てられているのだ。 逆に電気を熱に戻すのも然り、必ず変換ロスが生じる。液体ガスや石油を直接台所に持ってくれば、100%熱になるのに、・・・・あほ臭い。

僕の場合は、我々の松平家を知り、歴史を旅する、お茶を知る旅、そんな旅だった。
皆さん、福島に行こう、福島の人たちを助けましょう。

10
26日から、いつものセブ島 『僕の村』に参ります。 今回で12回目。帰国は、これまた、いつもどおり クリスマス直前で、2ヶ月間の滞在です。澄み切った珊瑚礁の水の中、無重力、3次元の空間を、僕とのんびり散歩しませんか?

時々「計画停電」があって、そんな夜は道端に椅子を出し、生ぬるいビールを片手に、「ろうそく」を囲みながら皆で談笑する、そんな素朴な『僕の村』ですけど。
興味がある方はご連絡ください。                          akio (^:^(