≪ 不死鳥物語 ≫

〜 第11話 地縁・奇縁 〜 後編

遠藤栄造  (2008年6月)
◆ 前編で我等のKDD事業が無事、KDDIにバトンタッチして来た経過を振り返ってみた。この後編ではKDDが如何に前走者からバトンを受けてきたのか、遡ってみたいと思う。
 そもそもの話しに遡ると長くなるが、我が国の電気通信事業は、明治7 (1874年) 制定の 「日本帝国電信条例」 以来一貫して 「政府専掌事業」 として経営されてきた歴史がある。しかし、その中でも国際通信に限っては、対外通信網の施設面で可成り早い段階から民営方式が導入されていた。KDDの前走者とされる 「国際電気通信株式会社」 (以下 「KDTK」 と略称) はその典型で、対外通信網の施設建設・維持を担当してきた民営会社である。
KDTK当時の名崎無線送信所
「KDD創立10周年記念写真集より」
 一方、国際通信事業全般 (中央局の施設・運用サービス等を含む) の経営管理は、一貫して政府直営であった。そして昭和27 (1952) 年の特別法 「国際電信電話株式会社法」 により、翌年KDDが発足して、初めて国際通信事業経営全体の民営化が実現した。まさに歴史的変革であった。この特別法および当時の公衆電気通信法 (その後の電気通信事業法) の下で、KDDは暫く事業の独占経営を続けてきたが、1985年の改正電気通信事業法により通信事業全般の自由競争化が図られ、企業・サービスの一層の多様化が進展してきた。
◆ ところでKDDは1953年に設立の際は、電電公社 (NTT) から分離・独立した形で誕生している。したがって、NTTとのご縁は当然のことだが、上述のKDTKをKDDの前走者と位置付けた事情については、前編でも述べるように、戦後の慌ただしい通信事業の再編・改革の流れを見れば頷けるところであろう。つまり、戦後復興を目指した日本の電気通信事業体制は、まず敗戦直後の昭和21年に逓信院を逓信省に格上し、翌22年にKDTKの財閥解体・解散に伴いこれを逓信省に吸収、24年には逓信省から電気通信省を分立し、27年にはNTT公社が発足、28年にKDDの設立と云う具合で、KDTKは財閥解体当時の中核的施設 (無線網施設等) と職員を維持したまま、KDDに合体している。KDD発足当時の構成を概観すると;旧KDTKの無線施設部門とNTT中央局の国際通信部門 (関門局) および電気通信省の国際電気通信局を中核とする本社部門とによって組織された。因みにKDD設立当時の職員総数約3,200人の中の7割近くが旧KDTKから移行したとされる。
東京中央電話局時代の絨毯と
厚いカーテンで防音された国際交換室
「KDD誌No.517 (日本の国際電話50年記念記事) 」 より
 このようにKDDは異なる部門の寄り集まりで構成されたから、会社首脳部は先ず職員の団結・融和を大事に考え、KDD創業当時には職員給与を先ず民間レベルに合わせて、凡そ10%アップし士気の高揚を図った。更に、前職場に由来する職員間の給与レベルの凸凹についても逐次平準化を進めた。例えば、旧KDTK職員は前職場の給与水準を維持することを前提として逓信省に吸収されたので、当時の逓信職員の給与水準を上回っていたと云われる。また、国際電話交換職については、当時の外国航路の航空会社スチュワーデスと並んで女性の人気職場であり、特別職種 (通訳並み) を設けて待遇していたことは、ご存知の向きも多いと思う。これらの調整施策は、結局は職員全般の給与レベルの底上げにつながっており、職場のモチベーションを高めていたものと云えよう。
◆ そこでKDTK創設の由来等について見ると;そもそもは、明治維新の文明開化と共に導入された外資による海底電信ケーブル (明治4年開通のGNTCウラジオストック−長崎線等) の独占的な外国権益に悩まされてきた日本政府が、自主的な対外通信網の確保を目指したことに始まる。まず、大正初期に発展した無線通信技術を国策として採り入れ、いわゆる無線国策の下で、大正14 (1925) 年に 「日本無線電信株式会社」 を設立した。
東京中央電報局時代の電信関門局の現場 「KDD社史より」
 因みに、巨大な長波無線送信所として知られた 「依佐美無線送信所」 (現・愛知県刈谷市) は、日本無線電信会社が対欧通信用として昭和4年に完成したもの。間もなく短波無線時代に移ったが、この長波無線施設は戦時中の潜水艦通信用としても活躍している。そのアンテナ鉄塔は高さ250m・8本、アンテナ一張の長さ1,800m、送信出力500キロワットの巨大施設であった。10年ほど前までは東海道新幹線から目を見張った名物アンテナの風景。ご記憶の方も多いと思う。
 一方短波無線技術の進展、また無装荷搬送式ケーブルなどの開発により対外電話サービスが可能となり、その整備のため、昭和7 (1932) 年には 「国際電話株式会社」 を設立。昭和9年頃からは対米短波無線電話も開始された。そして、これら2会社を合体して昭和13 (1938) 年に設立を見たのがKDTKである。何れも国策会社だが、株式会社形態で民間資本の導入を図り、対外通信施設の拡充が図られてきた。  昭和初期からの日本の満州進出をはじめとする海外への権益拡大に伴い、これらの会社は現地の通信インフラ整備にも活動し、ご存知の満州電電をはじめ、アジア・南方方面の日本進出地域における通信インフラ整備には、これら各社から資金・人材等が供給されていたことは歴史の語るところである。
◆ 前編で述べた当地の狛江市和泉本町および北隣の調布市入間町に所在したKDTK (当時の本社:東京市麹町区丸の内) の施設について調べると、次のようなことが分かった。
旧KDTK研究所・養成所の跡地に建つ、
現NTT研修センター
 狛江市の史料によると;同社は昭和15年10月、つまり太平洋戦争勃発の1年前に工場を狛江村和泉に建設。その規模は、敷地面積38,000坪、建造物2,218坪に職員540人を擁する大きな施設で、当時狛江村に所在した東京重機製造工業 (現・ジュ−キ) や東京航空計器=現存) と並ぶ法人税のトップ企業であったと云う。更に史料によると、KDTK狛江工場の目的は、関東各地の無線送受信所 (小山や小室など) にあった付属修理工場を狛江に糾合し、当時の軍需を含めた通信機器の開発・修理などが行われていたと云う。
 狛江工場から2kmほど北上した神代村入間 (現・調布市入間町) のKDTK施設については、同社発足間もない昭和13年11月に研究所として開設され、敷地51,000坪、研究室1,700坪の広大な施設。当時の先端的技術として、真空管、通信ケーブル、超短波通信、関係機材などの研究・開発を手がけ、学界、産業界にも大きく寄与したと云う。この研究施設の一部は、その後のKDD研究所 (当初は、三鷹電気通信研究所に間借り) の前身とされる。
 また、このKDTK研究所敷地には翌昭和14年に会社職員の養成所が併設されている。男子技術者に加え女子技術者 (高等女学校以上の学力) も養成された先進的なもので、これらの職員は、国内のみならず海外の関連通信会社にも派遣されたようだ。
NTT研修センター前の道路に建つ
供養塔の道しるべ
 なお、ここは現在、NTTの研修センターとして、学術・体育等の近代施設に変貌している。余談になるが、研修センター前の道路に建つ 「道しるべ」 は史跡保存される石柱で、当時の泉村の地蔵尊 (現・狛江市元和泉の泉龍寺に祀る) に至る巡礼道を示したもの。欠けた石柱の各面には、「天明元 (1781) 年建立」 「左り江戸四谷道」 「右世田谷目黒道」 「是より泉むら子安地蔵尊へ二十五丁」 などの刻字が見える。
◆ さて、前述のとおりKDTKは、戦後の財閥解体・解散 (昭和22年) 時に、大方の施設・人員が逓信省に吸収されたが、付属施設であった狛江工場は独立の道を辿っている。つまり、当時の工場施設・陣容により 「国際電気株式会社」 として通信機器メーカーに変貌し昭和24年に設立を見ている。この会社は通信機器の製造・供給等においてKDDとも協力関係にあったことは我らの記憶に新しい。この国際電気・狛江工場は、高度成長期を迎えた昭和41年には多摩川上流の羽村に新鋭工場を建設・移転したが、それまで狛江の地には我等の先輩が多数活躍していたことになる。国際電気はその後のIT時代で業容を拡大し、2000年にはM&Aにより、日立電子と八木アンテナの両社と合併して、現在は 「日立国際電気株式会社」 に改称している。
 因みに、国際電気と似たような経緯で創業したのが、ご存知の 「電気興業株式会社」 。かつてKDTKの無線送受信所の建設・保守などを担当した技術陣が中心になって昭和25年、上述の依佐美長波送信所が米軍の潜水艦通信用に貸し出された際に、同送信所施設の保守を担当のため設立、以来業容を拡大・発展。KDDとの協力関係でもお馴染みである。
◆ 上に見るとおり、我等がご縁を得た通信事業は、不死鳥のように、先人の貴重な遺産をバトンタッチしながら、KDTKの無線網時代、KDDの衛星・ケーブルによる広帯域網時代へと進化し、今日ではKDDIの手によるIT時代へと移り、更に目まぐるしい変遷を見ている。引き続きk-unetで結ばれる我等OBグループは、その奇縁を大事にしながら、先人への感謝とともにKDDIの一層の発展をお祈りしたいと思う。
万葉歌碑に謳われる「万葉乙女像」が
再開発された狛江駅前を飾る
◆ 最後に、地縁の話題として登場したわが街、狛江市について若干紹介しておこう。当市は多摩川・河岸段丘の平坦な一角を占める、日本一の最小都市。面積僅かに6.39平方キロb、昔の狛江村の広さを頑固に維持している。一説によると電話が東京「03」区域に属し、「04」区域への併合を嫌ったと云うこともあるらしい。人口は現在7万6千ほど、目ぼしい産業・名物もないベッドタウン。上記の国際電気・狛江工場跡地には、都営住宅団地が整備され、大型ホームセンターも出店して賑わう。また戦時中、銃器などの軍需産業で活躍した現 「ジューキ」 工場跡地には 「慈恵医大病院」 や大型スーパーマーケットなどが開設され、ベッドタウンの一翼を担っている。
 この小都市を新都心・新宿に結ぶ小田急線は市の中心部をほぼ東西に横切っているが、先年複々高架線で街の3駅 (喜多見・狛江・和泉多摩川) が結ばれ 「水とみどりの街」 をテーマに沿線の再開発が進んでいる。歴史的には 「狛江百塚」 として知られるように古代から開けた南武蔵の一角。また 「多摩川万葉歌碑」 として知られる万葉仮名の歌碑は 「多摩川に晒す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」 と万葉の乙女を謳う。この歌碑は、江戸後期の文化2年 (1805年) に老中・松平定信 (楽翁) の手で多摩川河畔に建立され、その後洪水で流失したが、大正11年に楽翁に私淑する渋沢栄一翁 (初代KDD社長・渋沢敬三氏の祖父) の肝煎りで再建され、現在は多摩川堤にほど近い、万葉ミニ公園として整備されている。
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