さて、今回のタイトルは Andrea Bocelliの絶唱する旅立ちの歌「Con te partiro」です。 英語版のタイトルは「Time to say good-bye」。 歌の主人公のように、素敵な人と憧れの未知の国へと 旅立つのではありませんが、気になる会社を辞めるに当たっては何がしかの感慨無きにしもあらずです。 IDO退社の時にもこの思いがありましたが、今回はまた格別です。
KDDに35年勤めた後、トヨタ・東京電力主導の IDO(日本移動通信)に技術顧問として9年間お世話になりました。 電気通信が自由化され、競争導入が本格化して国際通信に陰りが出始めたのもこの頃です。IDOで携帯電話と インターネットの進展を見るにつけ国際通信一辺倒のKDDに危機感を感じておりました。
当時KDDは、PHSのアステルを始め、携帯電話のデジタルフォン、ツーカー、更には役所の指導があったためと 思われますが、NTTのドコモ各社にまでも出資をしていましたが、何故かIDOにだけは出資がありませんでした。 トヨタの資金力とKDDの技術力をもってすれば、トヨタが出資していた国内長距離通信のIDC(陸軍)、 海底ケーブルのKDD(海軍)、同じくトヨタが大株主である携帯電話のIDO(空軍)の3社を統合すれば、 陸海空3軍を統括した一大企業ができるはずと考えておりましたので、IDOにも最低限の出資をとKDD経営陣に 繰り返しお勧めしたのですが全く聞く耳をもって頂けませんでした。当時からDDIとの合併話も一度ならず 出ていたようですが、物の考え方、気風が違うとかで消えて行ったようです。あの頃真剣に考えていたら、 もっと有利な条件で合併ができていただろうにと、死児の齢を数える気持ちです。
やがて、不思議な「えにし」で、私が係わったKDDとIDOが京セラ資金のDDIと 合併することになりました。社名は資本の原理によるものでしょうか当初「DDI」となりましたが、やがて名前 の売れたKDDの名も入れて「KDDI」に変更されました。当時の電波申請担当者から、すべての携帯電話基地局の 所有者名を、一旦申請した「ディディアイ」から「ケイディディアイ」へ変更するだけで大騒ぎなんですよと ぼやかれたものでした。また誰かが「KDDIにはIDOが無いではないか!」と言いましたが、私は、それでもIDO の愛「I」があるからいいんじゃない?と言い続けてきたものです。
その合併の成否を見届けることなく、日本電業工作(株)に転職したのが2000年9月 のことでした。この会社はKDDの前身である国際電気通信株式会社の技術陣が戦後設立した会社で、八俣送信所や 北浦受信所の短波空中線を始め、マイクロ波アンテナを沢山製造してくれました。25年ほど前この会社が左前に なったとき、当時常務だった清田さんが管財人になって立て直してくださったという縁もあります。IDO時代には、 NTTに対抗して仲間と共に発案した携帯電話基地局用の偏波ダイバシティアンテナを数千本も作ってもらいました。
最近この会社にもようやく海外生産、特に中国でのビジネスに注目する動き が出てきました。国内のドコモ一辺倒だったこの会社の経営に対し、入社以来3年に亘って力説してきた ところでしたが、中々耳を傾けてはくれませんでした。またまた会社に大きな転機がくる時にそこを去るという 皮肉な巡り合わせとなってしまいましたが、潮時というものでありましょう、8月末でこの会社にもさよなら を告げることとなりました。
あとは大学での講義がありますが、気になる会社を辞めるに当たっては、ほっとすると同時に一抹の寂しさを 感じるのはサラリーマン生活にどっぷりと浸かってきた者の侘しい習癖なのでありましょう。それぞれの会社 でそれぞれ何がしかの成果を残してきたつもりではあり、悔いはありませんけれど。
未だ色々やりたいことが沢山ありますが、ダンボール7箱もある会社時代名残の書類などを整理しながら、 S&S Cornerの次のお題でも考えることと致しましょう。今後ともよろしくお願いいたします。