Sugar & Salt Corner
No.20    2004年12月9日
佐藤 敏雄 

新潟県中越地震と通信

北野志津子さんの記事「新潟県中越地震被災地に行ってきました」を拝見しました。私も長岡市に 実家があり、親戚や母校である長岡高校などが、多かれ少なかれ被害を受けています。 遅まきながら長岡の被害状況を振り返ってみたいと思います。

(1) 長岡1
 10月23日、我が相模原でも震度2程度の揺れを感じましたが、テレビで中越地方に大地震と 報じられ半ばパニックになりました。すぐ電話に飛びついたのですが、全くかかりません。 2時間後、奇跡的に市内の弟の家につながり長いリングトーンの後でようやく弟が出てきました。 凄い余震が続き怖くて家の中には居られないのだとのことでした。実家は信濃川の堤防から 100m位の所です。食器棚からは物が落ち、2階では箪笥がひっくり返ったそうですが、 幸い家の損傷も怪我も無かったようです。ライフラインも全く問題なかったのですが、 電話はその後3日間位、全くつながらない状態でした。これはNTTもKDDIも同じ。トラヒックが 通常時の何十倍にもなりますから、交換機ダウンを避けるため、通信会社は回線を極端に絞って しまうためです。

(2) 長岡2
 同じ長岡市内でも、東山に近い義兄のところは惨憺たる有様でした。写真1 は半月後に送られて きた家の中の有様で、「上」との記載が無ければどちらが天か地か判別不能なくらい物が散乱し 、足の踏み場もありません。テレビもステレオもひっくり返って頭に当たり、元に戻してもまた 余震でひっくり返るので放置してあると手紙にはありました。電話は全くつながらず、手紙で ようやく分かった事は、ライフラインが全滅。特にガスは1ヶ月止まったままで風呂に入ることが 出来ず弱ったとの事でした。山古志村に近い東側の丘陵地帯と田んぼの埋立地にできた住宅の 被害が大きかったようです。12月始め、東京で高校の在京生同期会があったのですが、3日後 に地元に入った友人によると、山側のお墓が総崩れで、土台の石が横にずれ、墓石は3mも飛んで いたと事です。余震はまず「ゴーッ」と地鳴りがし、「ズーン」と下から突き上げられる感じで 震度5は怖いとの事。

家の中の有様
写真1  家の中の有様
(3) 越後湯沢
 ここに住む妹のところもかなり揺れ、 電話もつながりませんでしたが、一日後に何とメールがつながりました。停電でパソコンを立ち上げられなかった のですが、電気は一日で復旧、ようやく状況が判明しました。その夜は旦那が出張でいなかったため、 停電の真っ暗な中、余震が恐ろしく、キャップランプをつけ、猫と一緒に布団の中に入って震えていたとの事です。 「今も余震があるしヘリコプターが上空を飛んでいるよ」とありました。メールが早くつながるのは新発見でしたが、 弟のところは、プロバイダーの設備が故障したようで、1週間は駄目でした。

(4) 長岡高等学校
 写真2は母校の状態です。近着の同窓会報からとったものですが、門柱が傾き、建物のあちこちに被 害があった ようです。家内の大手高校や母校表町小学校などが避難所に当てられ、大勢の人が避難生活しているのは 毎日テレビで放送されたとおりで、心が痛みます。

母校の状態
写真2  母校の状態
(5) 電話
   KDD並びにIDO(現au)に勤めていたわが身としては、このような時には輻輳するから電話はかけるべきでないと 思いながら、親戚の安否は確かめざるを得ませんでした。固定電話より携帯電話の方がつながりやすかったようです。 NTTの災害用伝言ダイアル「171」も試しましたが、先方がその存在を知らないため連絡が付きませんでした。

(6) 放送 あれから毎日、全国の気象情報でも長岡の天気が真っ先に報じられ、有難くもありませんが、俄然、あちらの名 が知られるところとなりました。3チャネル教育テレビでは安否確認情報がずっと流され続けました。 大学で通信法規を教えている私ですが、具体的に放送法による緊急時の放送を見たのは初めてでした。ただ、 あんなところに名前が出てはと、自分で使う気にはなりませんでした。

これからは「モバイル放送」が主役になるかも知れませんね。これは携帯電話並みの受信機でラジオが聞け、 動画のテレビも見られるもので、10月から放送が始りました。12月8日のサテライト会例会で同社の方から興味 深いお話と実演があり、感銘深いものがありました。

以上、通信にからんだ中越地震情報でした。

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