ネットインタビュー (15)

松本 一夫 さん
----- 地図は面白い -----
松本さん

Q1 松本さんは地図に大変な興味をお持ちだそうですね

  私はあらゆる地図に興味があります。現役の頃は外国出張が多かったので、訪れた地ではできるだけ現地の地図を人手するように努めました。その地の案内図になるだけでなく、地図はその国の文化の程度を示す指標のようなものだと思います。

Q2 幕末にできた外国製の横浜の地図があるそうですが、どんなものですか

  この地図は英国製で、大きさが 51 センチ× 69 センチ、横浜を中心に江戸から富士山あたりまでを含んだものです。2年ほど前に相模原の市立博物館で実物を拝見したのです。貴重な地図のこととて極めて大事に保管されており、読ませて貰う間、地図を痛めないよう腕時計を外すよう要請され、学芸員は私から離れませんでした。この地図は、横浜開港資料館編として発行された『幕末日本の風景と人びと』という本にA3版近くに縮小されて収容されています。

主役の地図

  この地図は明治になる前年の1867年にロンドンで発行されたものです。編集者は日本に駐在していた英国海軍の大尉で、自ら歩き、また幕府の資料をもとに慎重に作成したと注釈がついています。地図ですから多くの目的を持っていたと思いますが、その数年前に結ばれた「安政の5カ国条約」により外国人が居留できた神奈川(横浜)付近で、どの範囲まで行動してもいいかを示すのが主な目的だったようです。そのことが表題に書かれています。

  図はこの地図のコピーです。ご覧のようにカラー版で、その遊歩限界線が赤色の線で示されています。東端は多摩川、西端は酒匂川、北端は八王子付近で、日本人はその範囲を通称十里四方と呼んでいたようです。私が特に関心を持ったのは三浦半島の先端部も禁止区域に入っていることです。三浦半島の横須賀付近から西海岸の小田和港付近に至る線が限界線で、国防上の配慮があったのだと思います。

  現在の地図と比べますと、明治以来の埋め立てにより海岸線がずいぶん変わっています。三浦半島の西海岸にはあまり変化はないのですが、東海岸はかなり様相が変わっています。横浜港や磯子地区の変化は特に大きいようです。金沢八景付近にあった大きな入江も現在では極めて小さくなっており、京浜急行の金沢文庫駅あたりも当時は海の中であったことが分かりました。

Q3 外国人の観光用にも使われたのでしょうか

  この地図は DESCRIPTIVE MAP と名づけられており、緯度・経度をはじめ、地形、地名、道路などが描かれているほか、ちょっとした解説記事がついています。また当時から信仰で有名だった丹沢の大山へのルートも書かれ、特に景観の優れた場所として江ノ島・由比ケ浜・金沢八景付近などには記号が付けられています。特に江ノ島は日本七景の一つだと注釈がつけられており、外国人の観光用でもあったようです。

  大山はこの遊歩範囲に入っていますが、聖地だということから幕府は外国人の人山を禁止していました。その関所を避けて登山し捕らえられた話が書かれており、外国人が自由に歩き回ることには制約のあったことを窺わせます。

  外国人が動き回る手段としては乗馬によったようで1867年の2月の記録として、保上ケ谷から出発し、厚木・飯山・宮ケ瀬・八王子・橋本・原町田を経て保士ケ谷に戻った記事があります。約140キロの行程で14時間半を要したとのことで、途中馬を2回取り替えていますが、平均時速は約10キロということになります。休憩や食事時間を考えると結構速い速度でした。

  このほか、外国人が旅行することによって、さまざまな危険も発生し、時には外国人が殺傷されたこともありました。有名な事件として1862年(文久2)に横浜の鶴見で起こった生麦事件や、1864年(元治元)に攘夷派の浪士が鎌倉八幡宮の参道で起こした事件も書かれており、外国人にとっては極めて大きな関心事であったと思われます。

Q4 細かいことまで、色々書かれているようですね

  そうなんです。いろんなことが書かれています。よく読みますと、真の北方向(真北)と磁石の示す磁北の差が書かれており、酉偏2度10分とありました。この値は地球のマグマの動きにより絶えず変化しており、現在の横浜付近における値は西偏約7度ですが、ここまで細かく書かれています。

  さらに、この地図の図郭の周囲には現代の地図なみに緯度・経度が書かれています。近世の地図として画期的な業績を残した伊能忠敬が日本地図を作ったのは、この約50年前のことでした。忠敬は経度については京都を起点にした座標で作図していますが、この図はロンドンを起点にした現在の座標になっており、緯度も含め現在の地図どおりの表示になっています。外国がこの当時、日本全国についてこのような正確な情報を持っていたことを窺わせます。ちなみに、忠敬の地図に示された緯度は正確でしたが、経度については観測に必須であった正確な時計がなく、北海道や九州ではかなり不正確になっています。

Q5 お住まいの町田市や、お隣の相模原市などの古い町筋なども出ていますか

  私の住んでいる辺りは興味を持ち詳しく読みました。当時の町田は絹の輸送の中継地といわれていました。そのようなことで八王子から横浜に至る道は「絹の道」と呼ばれていました。この道がこの地図には明瞭に描かれています。相模原市橋本の町田寄りに田端という地がありますが、ここから町田の中心街の原町田に至る道は現在の町田街道に符合しますが、田端からは北へ道路が延びており、現在の町田街道や国道16号ではなかったことを表しています。また、原町田から南へは、これも現在の町田街道ではなく、東寄りに向かい神奈川に至っています。

  原町田から相模原に至る道には驚きました。相模川沿いに田名(たな)という地がありますが、ここへ至る道がはっきり書かれています。現在ではここには大きな道はありませんが、当時は往来が多かったのでしょう。

  このほか、現代の地図にもみられるような田畑や植栽の状況も描かれています。八王子付近は養蚕が盛んで桑が多かったのは当然として、横浜寄りの地域にも桑があり、境川左岸は特に豊かだと記されています。また小生の住まい付近は深い森だと書かれており、現在では想像もつきません。

  地図に書かれた地名は作者が耳で確認したものが多いようで、私の住む町田の原町田は Haramatchada、八王子は Hatchoge、平塚は Shiratzka と書かれています。このほか、三浦半島の東海岸にはペリー艦隊で来日した軍艦の名をつけた湾が3か所あり、戦後大阪に駐留した米軍が大阪の中心道路である御堂筋を Lightning Boulevard と勝手に名づけていたことを思い出しました。

  この地図が作成された時期は新選組が京都で盛んに活動している時代でした。彼らがそれまでに盛んに歩いたといわれる町田の小野路(おのじ)と府中の間にも道筋が描かれており、若かった彼らの姿を彷彿とさせます。

Q6 ほかに興味を持たれた地図がありますか

  面白い地図として、海底地図があります。四つの大洋である太平洋・大西洋・インド洋・北極海の海底の模様が実に鮮やかに描かれています。米国の地学協会が、1千万部近くも発行している月刊のナショナル・ジェオグラフィック誌を通じて作成したもので、私は海底線の仕事が長かったので興味を惹かれる地図でした。これまでに2回発行されており、1回目は1965年頃、2回目は1992年前後のことでした。いずれも世界中、特に米国の海洋研究所に集積された海洋調査結果を元にパノラマ図にしたもので、特に1回目の地図はアルプスのパノラマ図で有名なオーストリア人のH.C.ベランが資料をもとに海山や海溝を忠実に描いた見事な地図でした。当時は米国に送金するのが現在のように簡単ではなかったので、何枚かを買うのにKDDのワシントン事務所長でおられた西田昌弘さんを煩わせました。

  1991年だったと思いますが、このベランがある旅行会社の招きで来日しました。それを知った私はその会社に頼んで彼に会うことができ、この地図に大きなサインを貰いました。彼はドイツ語しか話さず同行していた英語の通訳を通してでしたが、この地図を忠実に描いた時の苦労話を聞くことができました。

  一般に使われるメルカトル地図は、世界地図のような広い範囲を示す場合、赤道から極地に向かうほど東西について実際の距離を示さなくなるほか、向かう角度も正確に表せません。ここで思い出すのですが、KDDが発足した2年後の1955年に、技術関係の要員に施設運用手帖という小さな手帳が配られました。当時居られた方々は覚えておられると思います。短波の使用周波数をはじめ通信施設の概要や技術資料のびっしり詰まった約 200 ページの手帳でした。この冒頭に東京を中心にした円形の東京中心世界図と名づけた地図がありました。メルカトル地図に比べると世界の海岸線が奇妙な形をしているのですが、大圏コースが直線で表され、その方位と距離が直ちに分かる短波人間にとっては実に有用なものでした。いま私の手元にシリアルナンバーが904の手帳がありますが、先輩は苦労してこの地図を手帳に掲載されたのだと思います。なにしろ古いので南極大陸の海岸線はほとんど描かれていません。

  現在はこの様式の地図は正距方位図と呼ばれており、ANAが自社の航空路線を表すためにカラー版で作っていることを知りました。これには南極の海岸線もはっきり入っています。これを入手し、書斎の壁に掲げ楽しんでいます。この地図を作った地図会社に照会しますと、ソフトを持っているので需要があれば、そして中心の緯度・経度の指定があれば世界中のどの地点でも中心にした正距方位図は作れるとのことで、時代の差を感じています。

Q7 地図に関する新しいニュースはありませんか

  あまり知られていない大事な話があります。地球上のどの位置も緯度・経度の座標によって特定することができます。実は、日本の国土地理院が定めている日本国内の座標系が、航空機や船舶が世界中を航行するのに使っている座標系と異なっていたのです。世界中では各国がいろんな座標系を持っており、その種類は100を超えると思われます。しかし近年、IT社会の進展により地図情報が世界的な共通の認識になってきたことに伴い、日本の国土地理院は2002年4月に測量法を改正し、同院の発行する各種地図の座標の数値を変更し、世界で標準となっている WGS-84 に合わせました。これを世界測地系と呼んでいます。東京付近では緯度でプラス 12 秒、経度でマイナス 12 秒ほどずれることになり、同じ場所の表示が約 450 メートルも変ってしまいました。無視できる値ではありません。この値は北海道北端では約 400 メートル、九州北部では約 420 メートルになります。

  日常の生活では位置を示すのに座標を使うことはほとんどありませんが、山登りでは座標が重要です。同じ数値でこれだけ位置が変わりますと、尾根の反対側になったり、隣の尾根になったりの混乱が生じます。最近は簡単な GPS 受信機もあり、座標の数値の入手も容易になりました。しかしまだ過渡期にあり、どちらの座標系かを明らかにする必要があります。慣れるまでの当面は注意が必要でしょう。ちなみに多数発行されている国土地理院の地図は図郭が変わることになり、一朝一タには変更できませんので、図郭の四隅に両者の数値を色を変えて表示しています。

以 上
編集後記
  山歩きをしている間に、松本一夫さんが英国で出版された古い横浜の地図をお持ちと伺い、k-unet のためにインタビューをさせて頂きました。
  松本さんは、昭和28年4月に KDD に入社され、大阪支社、河内送信所で短波無線設備の設計、工事に従事されました。本社に移られてからは、第一太平洋ケーブルを始めとする7本の海底ケーブルの敷設工事に携わられ、KDD丸の工事長としても活躍されました。定年退職後も技術を生かしてNEC関連会社などで働かれましたが、現在は町田市少年少女発明クラブの副会長として、子供達の科学離れを無くすべく頑張ってお出でです。お話はいつまでも尽きず、その情熱に圧倒される思いでした。
佐藤敏雄
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