≪ 不死鳥物語 ≫

〜 第11話: 地縁・奇縁 〜 前編

遠藤栄造  (2008年4月)

◆ この度は佐藤敏雄さんの投稿S&SーNo.34により、著名なSF作家アーサーCクラーク博士の他界を知り、改めて博士の宇宙科学における功績に対し敬意を表したいと思います。博士の地球物理・宇宙科学に裏打ちされた仮説・卓見は、実証的に人類社会に多くの業績を残されました。これからも続編SF物語は世代にわたり、不死鳥の如く検証・実証されて行くことでしょう。
 博士が早くから提唱された静止衛星通信システムの具体化において、私たちはインテルサットを始めとするKDDの衛星通信事業に関わってきた。そのご縁は忘れられない。夢のスペースエレベーターで天国に向かわれた博士のご冥福をお祈りしたい。
◆ ご承知のとおり、静止衛星通信システムは1960年代前半、クラーク博士の構想通りに実用化されグローバル衛星通信へと展開した。ほぼ同時期に導入された大洋横断海底同軸ケーブルと共に、国際通信ネットワークに一大革新をもたらした。つまり、それまでの不安定な短波無線時代から映像伝送も可能な広帯域通信網時代に向かった大変革であった。
 1953年の発足間もないKDDは、この改革に社内をあげて取り組んできたことが懐かしく思い出される。この新しいメディアの導入に向け、各部門一丸となって突進した。大変な難事業ではあったが人材に恵まれたKDDは、先進欧米諸国に遅れをとることなく新しい技術・施設・国際的な運営体制への対応を果してきたのである。
 特筆されることは、この新しい衛星・ケーブルシステムが、戦後の自由・平等の流れを受けて、国際協力・協同態勢の下に確立されてきたことである。つまり、衛星システム (いわゆる宇宙部分) は、当初のインテルサットやインマルサットに象徴されるように、多国間取り決めをベースとした事業体間の協同運営体制 (コンソーシャム方式) 。またケーブルシステムにおいても参加事業体の協同建設・運営体制 (国際ジョイントベンチャー) と云う概念であった。この国際民主的な体制により、参加国・事業体数は増加の一途を辿り、さらに技術的進展、サービスの多様化とも相まって世界の情報の流れは活況を呈し、事業の自由競争の波が潮流となった。
(参考:グローバル衛星通信システムの展開やエピソード等については、拙稿シリーズの各話題、特に第5話・6話などでも触れている)  このような通信事業の自由競争化に伴い、事業の生き残りを賭けた企業間の合従連衡が進展し、KDDも遂に2000年にはIDO (日本移動通信) と共にDDI (第二電電) と合併し、今日では総合通信企業のKDDIに変貌した。そして事業の中核は携帯電話サービスに移り、衛星・ケーブル事業は相対的に比重を減じたが、今日のグローバルIT時代においてKDDのDNA・グローバルネットの遺産は、不死鳥のようにKDDI事業にバトンタッチされ、引き続き発展を見ていることは悦ばしい限りである。
KDD発足当時に本社が置かれた
旧丸の内赤煉瓦街三菱21号館の入り口にて
◆ さて、我等がお世話になったKDDはこの春で、1953年 (昭和28年) の創立から数えて、丁度55周年になる。もっとも、上記のとおり2000年にはKDDIに移行したので、KDD 主体時代の歴史は47年間と云うことになろうか。半世紀足らずの衛星・ケーブル革新時代を駆け抜けたランナー達・我等KDD/OB・k-unet会員は、同じ釜の飯を食ってきた仲間同志。合縁奇縁とまでは行かなくとも激動の国際通信・KDD時代に奇縁で結ばれていたことが偲ばれる。
 ともかく、我等KDDランナーは無事にKDDIにバトンタッチしてきたが、ではKDDはどのように前走者からバトンを受けたのか、余り判然とした記憶はない。最近、街のある懇談会で、私がこの半世紀余り住み親しんできた狛江の地にKDDの前身にあたる研究施設などが存在したことが話題になった。我等の先輩が当地でも多数活躍していたことを知り、更めて地縁・奇縁を感じている。そこで、KDD発足当時に遡り、先人の遺産とのご縁を尋ねて見たいと思う。
◆ 私ごとに触れて恐縮だが、小生はKDD発足当初の入社。当時広島の中国電気通信局で中国5県の国際通信を統括していた関係もあり、KDD本社に採用された。広島からお上りさんよろしく東京のど真ん中、当時のレトロな丸の内赤煉瓦街の一角・三菱21号館にあった本社で仕事に就いた。昭和28年4月、55年前のことである。当時はサンフランシスコ講和条約 (昭和26年秋締結) により、我が国が名実ともに主権回復に向かった時代。隣接ビルには未だ米軍の施設があり、国際通信サービスでもAF (Allied Forces) コールやEFM (Expeditionary Forces Message) 電報などの駐留米・英連邦軍等への特別サービスが可成りの比重を占めていた時代でもある。
AFコール国際通話所の開所記念通話の風景
(鳥取県美保空軍基地)
◆ KDD発足当初の経緯・その前史などはKDD社史 (編集委員長・西本正氏〜KDD唯一の生え抜き社長かつKDD最後の社長〜) に詳しいが、その頃を体感として語れるOB諸兄姉が次第に少なくなったのは寂しい。私の固い頭で思い出すのは、冒頭述べるように、短波通信から広帯域通信に変革を遂げていた激動の時代、それを成し遂げてきた有為の人材、新鮮な環境にも恵まれ、全員野球の態勢で臨んでいたことであろうか。初代社長の渋沢敬三氏をはじめ先見的リーダー・気鋭の人材が活躍していた。われらOBもその釜の飯を食ってきたご縁を誇りに思う。
 なお、渋沢敬三氏は初代社長・会長、更に三代目社長と足かけ10年にわたり草創期のKDDをリードしてきた。因みに、同氏は戦後の大蔵大臣・日銀総裁を歴任した政財界の代表的存在であると同時に日本民俗学協会や人類学会の会長も務めた文化人、我等は多くの薫陶に預かった。KDDの研究開発分野の充実にも尽力され、恵比寿の研究所新設や茨城衛星通信実験所の開設など、KDDの先駆的展開の基になったとされる。

社内親睦野球大会 (昭和30年頃・上福岡受信所のグランド) の
ベンチで応援する渋沢社長 〜前列のネクタイ男性〜。
その左・福田耕専務取締役。右・肥爪亀三取締役総務部長。
◆ KDD発足の経緯を見ると、戦後の占領政策を進めてきたマッカーサーGHQは、日本の電気通信インフラを評価しながらも、更に効率的改革を進めるために逓信省を分割して、電気通信省を立ち上げ (昭和24年) 、続いて事業運営組織の非官営化を進めた。その時、政財界の主張で国際通信分野については、特に身軽な民営形態が選択されたことが特筆される。昭和27年の国会で、日本電電公社法と国際電電会社法が採択され、公社法は直ちに公布、同年8月に日本電電公社 (NTT) が発足。国際電電 (KDD) は、設立準備を経て翌28年4月に設立を見ている。この民営化が推進された背景として、戦前から存在した「国際電気通信株式会社」の活躍が挙げられる。勿論当時の国策会社ではあるが、通信施設に民間資本の導入を図り、機動的に施設の拡充・改善を図ってきた先例が指摘されている。
 この国際電気通信株式会社は、終戦後GHQの財閥解体指令により解散 (昭和22年) 。施設・人員の大半は逓信省に移管されたが、昭和28年には国際電電 (KDD) の発足により、再び施設・運営を含めて民営形態に移行した訳である。特に当時KDD事業の中核であった無線送受信所などは国際電気通信会社時代そのままがKDDに引き継がれ、発足時には我等の先輩として同会社の職員が多数活躍していた訳である。
今年も狛江多摩川堤の桜は満開
〜半世紀を生きてきた老木も少なくない〜
◆ ところで前述のとおり、この国際電気通信会社が、私が広島から移住した狛江にも関係があったことを最近知った。小生が狛江を選んだのは全くの偶然。単身赴任で早く家族を呼び寄せたいと願っていたが、借家もままならない当時の住宅事情、会社発足時の多忙とも重なり半ば諦めていたところ、先輩の肝煎りで狛江の売り地が紹介された。早速KDDの厚生資金を借り入れ、小さなマイホームを建て、その秋には家族を呼び寄せることが出来た次第。国際電気通信会社との関わりなどは知る由もなく、土地勘もない片田舎のような新天地であった。
 最近、街のある懇談会で「貴方が勤めていたKDDの研究施設がかつて狛江付近にあったのではないか?」との質問を受け調べてみると、確かにそのような実態が明らかになった。国際電気通信会社についてはKDD社史にも紹介されており、前述のとおり諸先輩の中には先刻ご承知の方もあると思うが、更に調べてみると、狛江市の史料や昭和20年当時の街の航空写真 (当時の米空軍撮影?) などでも確認され、改めて地縁を感じている。
 つまり、KDDの前身である同会社は、当時の神代村字入間 (現在の調布市入間町) から狛江村和泉 (現在の狛江市和泉本町) にかけて広大な敷地と施設を保有していたのである。